メディテーション(瞑想)にはさまざまなタイプのものがあります。そして数もたくさんあります。一説には、瞑想と呼ばれるものは世界中に900−120...

 メディテーション(瞑想)にはさまざまなタイプのものがあります。そして数もたくさんあります。一説には、瞑想と呼ばれるものは世界中に900−1200種くらいの幅であると言われます。ここでいう「瞑想」といわれるものは、しっかりとした理論の体系をもち、その理論に基づいて厳格に技法が設定されたものを指します。

 特段理由なくフリースタイルに行われいる瞑想は、そもそも瞑想と呼べるものではありませんので、そうした1000前後と言われる瞑想の中には入りません。しかし、一般的にはフリースタイルな瞑想っぽいものも、瞑想と誤解されていることも少なくありませんので、そうしたものまで含めるとなると瞑想は星の数ほどあるといえるかもしれません。

 正しく瞑想と認知されているものには、理論的な担保がある為、必ずプラクティス方向性があります。心を外に向ける外向的瞑想、心を内側に向ける内向的瞑想の2つに大別されます。今回は、瞑想のそれぞれの方向性をご紹介しますので、みなさんが瞑想を始めるときの参考にしていただければと思います。

 
内向的瞑想

 まず、内向的な瞑想とは有神論的瞑想(Theism Meditation)とも呼べるもので、「神」のような外的で高次の存在を信仰することに基づいた瞑想です。例えば、サマディーと呼ばれる心の内側の奥へ深く入ってゆく方向である、ヒンドゥー教をベースとするヨガの瞑想などはこのタイプの代表的な瞑想の一つです。他にもギリシア正教などのような情緒的な「祈り」によって心の奥への集中を強調するような瞑想も同じ方向性の瞑想と言えます。

 こうした瞑想の基盤は、外的な存在があるからこそ、内的な個体である「私」も存在するという考え方で、瞑想を通して「私」が高次の何かとアクセスしていく方法を取ります。

 また、この「私」はそうした高次の存在からすると、まだ低い状態にあるので、人格的水準を引き上げていくトレーニングが必要で、神々や特定の聖者とのアクセスを主眼とする礼拝的なプラクティスをします。マントラなどもそうしたものの一つとして扱われます。

外向的瞑想

 それに対して、外向的な瞑想は全くアプローチが異なります。人間の存在自体が劣っていると考えず、人を高次のレベルに押し上げて何かを達成させる必要を認めません。

 また、外向的な瞑想のグループは、「私」という個人と外側の現象世界は分離せず、ただ共存しているという考え方をしています。そのため瞑想のプラクティは、心の奥底への内的な集中を求めません。その代わりに「実際にあるもの」を見ようとすることに瞑想の力点が置かれています。高次の存在を模索したり、内的なトランスのような方向に向かうこと全くありません。

 そして、実際にあるものを見ていくために、「いま」という概念がとても重要な役割を果たします。ただ「今・ここ」を見ることだけにポイントが置かれ、未来の目標や、ゴールへの達成などは目標にしていません。具体的には、「今」を見つけるために呼吸に意識を向けていきます。

 ここまで書けばもうお気づきのように、マインドフルネスやヴィパッサナなどの仏教理論を基盤とした瞑想が外向的瞑想に位置付けられます。こうしたグループの瞑想には、何か人間より高次の存在や神と人間との対話などは発生しないため、無神論的瞑想、または非有神論的瞑想(Non-theism Meditation)と呼ばれたりもします。

 瞑想のタイプを大きく分けると、基本的にこの2つのタイプに分かれます。それぞれのアプローチは大きく異なり、場合によっては真逆なものさえあります。しかし、どちらの瞑想のアプローチが優れているとか劣っているということはありません。堅牢な理論と長年にわたって多くの実践者が行ってきた実証により、どちらもしっかりとした効果が得らます。
 
 例えば、スノーボードと水泳をスポーツとしてどちらが上とか下とか優劣を決められないとの同じようなもので、それぞれの瞑想には、それを支持するしっかりとした理論やルールがあり、心や体、人間存在とはどういうものなのかという考えのもとに精密に組み上げられています。

 みなさんがこれから瞑想を始める場合は、どちらのアプローチの瞑想を始めても問題ないかと思います。単純に好みの問題で大丈夫です。あえて言うのであれば、理論の構成や、実際の瞑想技法が自分にフィットして、自分が継続的にその瞑想の練習ができるか否かでの視点で選択をすれば良いでしょう。

どこにも向いていない瞑想
  
 ただ、瞑想を始めるときに、危険を伴うものもあます。それは「どこにも向いていない瞑想」です。

 瞑想を始めようネットなどで探してみると、内側でも外側でもない、方向性がわからない瞑想に出会うことがあるかもしれません。文頭に少し紹介した「瞑想っぽい」ものがそれです。最近日本では特に増産されつつある、このようなフリースタイルな瞑想(っぽいもの)は、多くの場合論理的な裏付けがなく、ただなんとなくボーッとしていたり、心地良くなったり、過剰にトランスして意識を飛ばしているだけのものが多く、心が『どこにも向いていないの瞑想』と言えます。

 瞑想は「心」(マインド)を扱いますが、心とは自我やエゴとも言えるものも含まれます。本来、瞑想は過剰な自意識を減退させたり、エゴそのものの機能がわかるようにしたりするトレーニングと言えるものです。こうしたものを雑に扱ったり、そもそも過剰にコントロールしてしまうと、心を捻じ曲げてしまったり、自我を強化してしまう場合が多く、練習を続けた結果、自分の心にこだわり過ぎる単に我の強い人になったり、感情を過剰に捉えすぎて不安や恐怖が強くなる危険があります。

 心を扱うものである瞑想の実践は、非常に慎重に行うべきものです。

 心を扱うためには、「やっていいこと」と「やってはいけないこと」があります。内的な瞑想であれ外的な瞑想であれ、必ずルールがあります。そしてそのルールは、先人からわれわれまで継続的に磨かれている理論と、瞑想実践によって培われ研究されてきたもので、一朝一夕に出来上がるものではありません。

 どんな瞑想にも必ずそれを支える背骨があります。クラゲのような背骨のないものはありません。瞑想に触れるときは、その瞑想の方向性や基盤となる理論体系をまず見極めて、しっかり方向性があるものを選択することを強くお勧めします。外的であれ、内的であれ、方向性がしっかりしていれば、瞑想は必ずみなさんの人生の良いパートナーになってくれます。

心が迷子にならないように瞑想を選んでみてください。

河津祐貴
True Nature Meditation
Founder / Program Director