Thinking Mind
Apr 11, 2023マインドフルネス・メディテーションを習い始めると、思考や感情を評価・判断しないで手放すとインストラクションされます。この手放すをことを練習すると、メディテーター本人が思考や感情を持たなくなる、何も考えないクラゲ人間になるではないかと危惧される方も少なくありません。『ビジネスでも、人生でも、私は考えなければならないことがたくさんあるのに、こんなことをしたら、ダメ人間になってしまうのでは!』とマインドフルネス・メディテーションにある種のアレルギーが出てしまいます。
しかし、それは大きな誤解です。メディテーションをすればするほど、考える力は研ぎ澄まされます。今回はこの誤解について、マインドフルネスやその他のメディテーションにおいて「考える」とはどういうことか紹介しようと思います。
「考える」とはどういことでしょうか?
「何々について熟考する」というと、一般的には考えるテーマについて、自身が学んできた知識や、今までの人生での経験・体験、さらには自分の感情的指向などを用いて比較・分析して、自分が納得ができ、かつ安心できるものとして、自分の心(または頭)の整理棚にきちんとカテゴリーされて置くことができるような、思考の整理、カテゴライズといった行為として理解されているかと思います。
しかし、メディテーションの観点でものを「考える」というのは、こうした一般的な考え方とは真逆のことをします。考えるテーマに対して、そこに含まれているすべての要素を分解していくのです。テーマに関わる認識、記憶、感情がどのように含まれているかを、パッとみて、その情報を分解します。そうすることで、そのテーマの本質を見抜く作業をします。こうしたことを「識別」(Discernment)と呼びます。これが「物事をありのままにみる」といったり、物事の本質を「洞察する」と呼ばれるものです。
メディテーションの練習が不十分で、マインドフルネスやアウェアネスのセンスがない場合、私が「感じる」ことや「思う」ことには、過去の記憶や、未来の期待、感情的な含み、自分がこうだと信じている頑な決めつけが混ざり合っています。日頃の私たちは多分に自意識が強く働くため、物事に「私」というバイアスがかかり、そこには多くの誤まった、または余計な主観的情報がくっついています。自意識が正しい事象を歪めてしまっているのです。例えば、畑から抜いてきた大根を洗わずにそのまま鍋に入れているようなもので、出来上がったスープには泥も、農薬も、一緒に煮込んでしまっているのです。そうしたごった煮が私たちが落ち着きのない時の散漫な思考や感情です。とても不純物が多いのです。物を考えたり、洞察するためには、そうした余計な汚れ(情報)を取り除くことこそが最も重要です。
その不純物が多い思考に、さらに自分の観念や感情、過去の記憶や体験を加えたらどうなるでしょうか?最もっと不純物の割合が増えてしまいますね。それは物事を考えているというより、ただ混乱と決めつけを増長しているに過ぎません。トゥルンパ・リンポチェは、「悩み事は事態を悪化させるだけです。」という表現をしていました。私たちがマインド「レス」に基づいて考えれば考えるほど、物事はその本質からどんどん遠ざかってしまいます。
だからこそ、マインドフルネス・メディテーションでは、まず思考や感情を評価・判断せずに手放します。それ以上余計な情報を付け加えずに、自分がパッと思った、または感じたものに触れ、その本質を経験します。それができれば、自ずと自分の認識、自分のインスピレーションが何かを素直に直感的に捉えることができます。自分が考えるべきテーマをどう思っているのかが自然に浮かび上がり、そのテーマの本質がわかります。それこそが私たちが知るべきことなのです。物事を考えるとは、その事象の構成や本質を知ることなのです。そのためにはメディテーションが必要不可欠なルールとなるのです。
物事というのは、あるがままに基づいて行われる必要があります、その特定の状況から私たちは逃れることができません。物事はそうものであると知ることがとても重要です。仕事でも人生設計でも、人生で向き合うものは「あるがままである」ということを前提にものを考えなければなりません。それがウパーヤ「巧みな手段」と呼ばれるもなのです。
よくDavidは、”Frist thought , Best thought” (最初の思考がベストな思考)と言いますが、そこにこそ、物事の答えが隠されているのです。余計な逡巡は、事態を複雑化させるだけであるというのが、メディテーターの視点なのです。だからこそ、まずメディテーションのプラクティスの最初の一歩であるマインドフルネスから手放しを身につけていくのです。手放すことの先に、明晰で安定した考える心が表れてくるのです。