生徒であること
Apr 12, 2022最近は仕事柄、マインドフルネスに限らず、すでにメディテーション指導をしている方、指導者を目指して勉強を進めている方など、メディテーションの指導に関わる方々とお会いする機会も多くなりました。そのような中で、メディテーション指導者の勉強がある程度すすむと、『生徒』であることを辞めてしまう人を見かけることがあります。
◇私は『先生』なので、ほかの練習生とは一緒に学べません。。
□指導が忙しくて、自分の練習と勉強の時間がとれません。。
○もう先生なのに、なぜ勉強が必要なのでしょうか?。。
などなど理由はいろいろ。
しかし、メディテーションの指導者にとって『学ぶ姿勢』を失ってしまうことは、「指導者であること」を自ら放棄してしまうことだと私は思います。以前にも書きましたが、自転車に乗らないサイクリスト、スキーをしないスキーヤー、そしてメディテーションをしないメディテーターのようなものですね。
そもそも、メディテーションのトレーニングはわずか数年で終わるようなものではありません。仏教であれヒンドゥー教であれ、どのような教えであっても広大な智慧のフィールドがあり、それを学んで行くには膨大な時間と努力が必要です。そしてメディテーション自体に熟練していくには5年や10年ではとても足りません。デイビッドはよく『メディテーションは、一度始めらたやめられないもの』だといいます。
また、同時に「何かを常に学ぶ姿勢」をもつことは、指導者がクラスを行う上でも必要なものになります。個人セッション、グループセッション問わず、クラスを学びに来ている生徒さんが、「どういう状態なのか?」「なにが疑問なのか?」「なにか問題を抱えていないか?」といったことをキチンと受け止めるのにもこの姿勢が欠かせません。学ぶ姿勢を失うことは、自身の謙虚さや他者を受け入れる『スペース』をなくしてしまうことでもあります。メディテーションのクラスは、先生によるワンマン・リサイタルではないのです。
実際に生徒であり指導者であり続けることは簡単なことではありません。単純に考えても日々の生活の中で、クラスを持つ時間、自身のプラクティスの時間、本を読んだり、自身の指導者の元へ学びに行く時間といったさまざまな時間を確保するのは容易ではありません。さらに仕事や家事、家族との時間といった時間を確保した上となると尚更です。しかしながら、指導者はその時間を確保する責務があります。自身が指導する生徒さんへの責任があるからです。ここが単に自分プラクティスをすることとの決定的な違いです。
では指導者が学ぶ姿勢を失わないようにするには、どうればいいでしょうか?
私の経験上、大切なことは『孤立しない』ことです。独立独歩にならないと言えばいいでしょうか。とかく「先生」と呼ばれるようになると、プライドや傲慢さが芽生えがちです。その結果どうしても一人ぼっちになりがちですが、これがもっとも危険です。生徒である姿勢を失い、自分の先生とのコミュニケーション、練習仲間とのコミュニケーションを失うことは、この孤立化を後押ししてしまう可能性もあります。要するに、メディテーターとして必要な学びの姿勢=生徒であることを崩すことができないものなのです。
また、指導者が自身の先生を持つことは特に必要だと思います。私の場合でいえば、自身の先生として常にデイビッド・ニックターンが存在し続けますので、強制的(!?)かつ自動的に“生徒”であり続けさせられます。また、私は、デイビッドの先生であるチョギャム・トゥルンパ・リンポチェが残したプラクティスや文献の研究を行うOceanというコミュニティで、デイビッドが学んできた同じ内容でのトレーニングを毎日こなっています。さらに100冊以上にのぼる文献は、常に私に学ぶことを良い意味で強要しつづけています。読んでも読んでも終わりません。。デイビッドとトゥルンパ・リンポチェを毎日のトレーニングを通して感じることは、いかに私が「知らないか」を知らせてくれます。 それがまた日々の練習を後押ししてくれたりもします。
デイビッドは、Nudgie (お節介)というあだ名のとおり、いい意味でも悪い意味でも面倒見の良すぎる先生です。時には、50を超えている私が少年時代の反抗期を思い起こすほどの鬱陶しさを感じるほど、私の練習、人生についてのアドバイスが入ります。しかしそんな指導者に恵まれたからこそ、今の私のトレーニングが滞ることなく進みますし、生徒で有り続けていることができます。人生のなかで良い指導者へ巡り会えるというのはとても大きな幸運ですし重要です。
このように『先生』になって指導を始めるということは、自分がメディテーターとして進んでいく中での通過点でしかなく、決して到達点ではないことを忘れてなりません。
チョギャム・トゥルンパ・リンポチェ曰く、
『メディテーション指導者が日々行う練習はもはや自身の為だけの練習ではありません。それはすでに生徒の為のものでもあるのです。』
自戒をこめて。