マインドフルネスと創造性
Apr 12, 2022近年マインドフルネス・メディテーションの普及にともない、多くの方々がマインドフルネスに触れるようになってきました。私がメディテーションを始めた10数年前からすると考えれられないほど広がりです。これ自体は大変喜ばしいことなのですが、特に日本の場合は普及スピードが早いが故に、一部誤解を受けてしまってる部分もあるようです。
私は継続的にこれからメディテーションを始めたいと考えている方たち向けのメディテーション体験会を開催しています。その際に質問として伺うものの一つに、マインドフルネスを行うと創造性が失われるのは本当でしょうか?といったものがあります。
本当に創造性は失われてしまうものなのでしょうか?
今日はその辺について書いてみます。
なぜ創造性が失われるといった説が出てくるのか?についてお話しするには、まずそもそもマインドフルネスとはなにか?をしっかり定義する必要があります。
実は、一言でマインドフルネスといっても定義にはある程度バラつきがあります。
マインドフルネスは、以前のブログでも説明したとおり、仏教の基本的な考え方のひとつです。源流を遡ればお釈迦さんまで行き着きます。お釈迦さんに端を発して、仏教はチベット仏教や、南方仏教、中国の仏教や、日本仏教など様々な国と地域へ広がりましたが、その伝播において学術的・哲学的な捉え方に様々な差異が生まれて行きました。その結果、仏教の中においても、マインドフルネスとはどういったことか?についてはそれぞれの宗派学派によって定義が異なります。
さらに加えて、1970年代から始まったマインドフルネス・ストレス低減法(MBSR)をもとに広がった医療補助技術としてのマインドフルネスにおいても、ストレス低減に収まらず、認知行動療法、食事療法や人間関係の改善法、アートセラピーなどなど様々な分野への応用がこの40年でなされています。このようにMBSRを基礎としたマインドフルネスについても患者さんへのアプローチによってマインドフルネスの定義の広がりを見せています。
『マインドフルネス』一言で言っても、ブッディズム(仏教)メディテーションなのかMBSRをベースとしたアプローチなのかによっても定義が異なりますし、同じブッディズムにおいてもチベットなのか?禅なのか?テーラバーダなのか?によっても定義付けはことなるものです。これが皆さんがマインドフルネスの勉強をしようと思って、本をいくつか読むと混乱してまう一つの原因でもあります。定義がそれぞれ違うので、テクニックや説明が異なるのです。
さて、さらに話がややこくなりますが、マインドフルネスをさらに具体的に定義をしていくとどうなるか?について説明していきます。
ブッディズム・メディテーションにおいてマインドフルネスを説明する場合、いくつかの捉え方が出てきます。
まず、一つ目の考え方として『一つの場所に意識を置く』といったことが言えます。
彼方此方に飛び回る散漫な意識を、どこか一つの場所に置くことができれば、それでマインドフルネス!といった考え方です。 伝統的にはこの『ひとところに意識を集める』瞑想をシャマタ(サマタ)瞑想といいます。この定義に従えば、意識が一箇所に集まればそれでマインドフルネスということになります。呼吸に集中して呼吸を考え続ける、ロウソクの火を見つめてそこに集中する、目を瞑って頭のな中のなにかのイメージに意識を集める、などなど、どの方法でも、ひとところに意識が文字通り『集中』していればマインドフルネスだとなりますね。
次に、2つ目めのマインドフルネスの捉え方として、『今ここ”に意識を置く』というものがあります。よくマインドフルネスの本を読むと、「今!」とか「今ここ!」とかありますね。
“今”というのは皆さん普通につかう言葉ですが、実際“いま、ここ“とは何処でしょうか?
今の定義って、意外と難しいですね?
今こことは、五感がしっかり効いていてる瞬間だ、という考え方を採用する諸学派があります。この五感をしっかり使って今を捉える瞑想を伝統的にヴィパッサナ(ヴィパシュヤナー)瞑想といいます。これは、五感で捉えるもの、さらに思考や感情といった意識も感覚として、そのまま気付いていく瞑想法です。空間の広がりや、今自分がいる状況をパノラマ的に捉えていく、あらゆるものを洞察していく力といいましょうか。マインドフルネスを今をとらえるものだとすれば、このヴィパッサナ瞑想がマインドフルネスだとなります。
伝統的にはシャマタ瞑想を『止』の瞑想、ヴィパッサナ瞑想を『観』の瞑想といったりします。読んで字のごとくですね。
さらに、3つ目の考え方として、『散漫な意識を今に寄せ、同時に五感で捉える事象や思考や感情をただ観ていく』といったものもあります。意識をひと処へ寄せることは、散漫な思考から抜け出すには良いことであるものの、それだけでは不十分で、ひと処に寄せる意識の置き場所は、過去や未来の思考に囚われない”今“この瞬間に置くべきという考え方です。すなわち五感でしっかり認識している世界も同時に捉えているべきとなります。シャマタ(止)であり、且つヴィパッサナ(観)であるのがマインドフルネスという捉え方です。
True Nature Meditationにおけるマインドフルネスはこの考え方を採用しています。我々のプログラムディクターのデイビッド・ニックターンはこの考え方を彼の師であるチョギャム・トゥルンパ・リンポチェから受け継いでいます。チベット仏教カギュ派の伝統的なマインドフルネスの捉え方でもあります。
さてさて、説明がとってもとっても長くなりましたが、以上を踏まえて本題に戻りましょう!
マインドフルネスは創造性を失わせるか?についてです。
上述のとおり、我々のTrue Nature Meditationの考え方からすれば、基本的には創造性は失われるどころか、マインドフルネスをしっかりトレーニングすれば創造性は高まります!という答えになります。
自分の意識がしっかり今を捉え、自分が散漫な思考や感情に振舞わされることがなくなれば、自分自信が何を考えていて、どんな感情に囚われているのかが明晰に捉える力がつきます。新しいアイデアや、今まで自分の頭の中にありながら見過ごしていたアイデアについてもしっかり気がつくことができるようになります。
ではなぜ「マインドフルネスは創造性が失われる!」といったことが言われるのかというと、一つ目の考え方である『ひとところに意識を寄せる』が、誤解を受けている可能性があります。とくに誤解の多くは集中についての捉え方によります。過度に集中してしまうのです。
ある種の過度な集中、例えば呼吸などに集中しすぎるとどうなるか?
呼吸しか感じることができず五感が効かなくなり自分の状況全般を捉えられなくなるか、または呼吸のことをひたすら考え続ける状態になってしまい他の思考や感情が全く気づけないという事になります。こうしたある種の“過集中”は、ある種の“遮断”を伴ってしまいます。
当然この遮断によって自分がどこで何をしているかすらよくわからない状態に陥りますし、いわんや新しいアイデアに気がつくどころではありませんね。
要するにマインドフルネスが想像性を失わせるのではなく、やり方や理論の誤解してトレーニングをすることによって、そういった問題が生じてしまうのです。
マインドフルネス・メディテーションを通して創造性を失うことはありません。安心して体験してみてください!
メディテーションを学ぶにあたって、伝統的なモットーである『キツすぎずユルすぎず』が肝要なのです。あまりに極度なことを行えば、本来の効果が全く発揮されなくなる良い事例かもしれませんね。