心と意識

meditation まいにちメディテーション マインドフルネス メディテーション 瞑想 Apr 12, 2022
心と意識

さて、突然ですが、、、
 心とはなんでしょうか?
 意識とはなんでしょうか?
 心と意識の違いはなんでしょうか?

 皆さんそれぞれ、さまざまな定義が思い浮かんだと思います。
メディテーション(瞑想)を学ぶ上で、「心」と「意識」の区別して理解することはとても大切です。私が実践している瞑想(Tibetan-Buddhism meditation) では、心(Mind)は、純粋な知覚であり、そして意識(Consciousness)は、明晰な知的作業だと言います。今回はこの違いについて少し書いてみようと思います。

 まず、心ですが、これはとても単純な本能的機能です。頭脳労働を必要とせず、神経系のレベルでの単純な知覚です。サンスクリット語では心のことをチッタ「Chitta」と書きます。Buddhism Meditationを学んでいる人であれば「ボーディチッタ」(菩提心)という言葉を見聞きしたことがあるかと思いますが、このチッタは知覚の能力を含む心の基本的な本質を意味します。この心というこの種の知覚は、非常に直接的でシンンプルで、そして鋭敏なものです。よくメディテーションの指南書などに「ありのまま」という表現がありますが、ありのままに物事を捉えているというのは、このような純粋な知覚、物事の本質をそのまま捉えているということです。

 一方シンプルな機能である心に対して、意識には知的な作業が含まれていきます。心で知覚した微細で本能的感覚と、そこから発展した思考、思考の展開するパターンまで、全ての種類の思考のプロセスを含んでいます。さらに意識には顕在化しているものと潜在化しているものがあり、この2つが相互補完しながらうまく機能して、我々がいろいろなことを思考したり、感じているようにさせています。この意識のシステムが、メディテーション中に皆さんが遭遇する「頭の中のおしゃべり」を続けさせる要因です。単純に知覚していることを超えて、自身の経験や体験、学んできたことを総動員して、思考や感情のストーリーを「知的」に織りなしているのです。

 このように思考が生成されていく段階では、我々の知的な作業が多分に含まれてしまうために、あらゆる出来事を、自身の概念や先入観というフィルターを通して歪めてしまいます。思考が編み上げられる際に、この歪められた認識、ある種のでっち上げたフィクションもそこに織りまぜられていきます。こうなると、こうした混ぜ物によって、我々が見たり、感じたりしているものは、あるがままの事象ではなくなってしまっています。

『幽霊の正体見たり影尾花』という言葉があります。恐怖、疑いを持って物事を見ると、単なるススキの穂ですら幽霊に見えるという例えですが、単にススキを心で知覚できれば、ススキはススキに過ぎないのですが、不安や恐怖からくる知的な解釈がそれを幽霊に見せてしまいます。ススキが幽霊に変化するほどではないにせよ、ススキが猫じゃらしに見えるくらいの誤認は日常の中で我々は頻繁に行っているのです。こうした事実を歪曲してしまう知的な作用が意識の働きの一つです。これをエゴと呼ぶこともできます。

 エゴの視点から言えば、物事を知的に解釈をすることは正常な働きとも言えますし、人が知的な生き物である以上、自然な生理現象とも言えるかもしれません。しかし、こうした「すり替え」、または「でっちあげ」機能が続き過ぎると問題をはらみ始めます。もはや誤認を誤認と扱わずにそれがリアルな真実だと信じ込み始めてしまうからです。映画に行ってその映画に夢中になっている時に、映画館の外の世界、自分の本来の人生を思い出さないようなものです。自分が作り上げたフィクションこそが、リアリティだと信じはめてしまいます。

 こうしたある種のフィクションに嵌まり込んでしまった時に、そこから抜け出す機会を提供できるのがメディテーション(瞑想)なのです。メディテーションを実践することで、好ましいもの、好ましくないものも何事であれ、止まらない思考と思考の間に隙間(ギャップ)が差し込まれるようになっていきます。この隙間に気がつけば、夢を見ているような状態から、はっ!っと本来のシンプルで直接的な心の知覚に戻ることができます。現実に目の間に広がる世界であるがままに物事を受け止めることができるようになるのです。

 また、この心で知覚している時、物事を素直にそのまま捉えている時は、「今」しかありません。過去の後悔や未来の期待といったものは全て知的な作業が含まれいる「意識」の領域になってしまうからです。マインドフルネス・メディテーションで「今・ここ」を強調するのもこれが理由です。

 メディテーションの実践を通して、この純粋に知覚をしている感覚と、意識が知的に展開している感覚をしっかりと分けて理解できれば、自分が知覚を通して感じたことをどのように受け止めて、それを理解して、そして行動や言動に移しているのかといった一連の反応をしっかりと自覚できるようになるのです。そのために最も重要なことは、そうしたことに気づくことができる心的な空間、思考の隙間を作るということです。

 我々メディテーターは、この隙間を使ってヴィパッサナやトンレンなどの様々なメディテーションのトレーニング行います。さらに坐る瞑想の練習をしていない日常の時間(ポストメディテーション)においてもこの隙間を使って、意識を白昼夢から戻したり、思考や感情にシンプルに触れていきます。そう言った意味では、こうした心的な隙間を作ることは、心を扱う上でのスタート地点と言えるかもしれません。

そしてこの隙間をつくる最も基本的なメディテーションがマインドフルネスなのです。メディテーションが「自分と友達になるとこと」というのはこのためです。

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