心をみる

meditation まいにちメディテーション マインドフルネス メディテーション 瞑想 Apr 12, 2022
心をみる

前回のブログでは、最初の思考(Fist thought)に関して少し紹介しました。メディテーション(瞑想)をしていて、パッと気がつくこの「最初の思考」が、実は私たちの『心』と呼ばれるものなのです。この「最初の思考」は、非常にダイレクトでシンプルな、自分の経験でもあります。

 メディテーションは、心のトレーニングです。心とトレーニングをしていくためには、まず自分の向き合う対象と、対象に向き合っている自分自身が不明確であるとトレーニングが始められません。そうしたものをしっかりと把握するために最も必要なことは、『ただ観ること』です。

 しかし、心や自分がここにあることを、素直に観てみようとすると、それがなかなかできないことがわかります。何かの居心地の悪さであったり、気分が高揚して落ち着きがなくなったりして、しっかりと自分の状態が把握できないことが多いのが私たちなのです。

 ポジティブであれ、ネガティブであれ、どのような心の状態であれ、体の状態であれ、オープンな態度、ひろやかな態度で向き合うことが、メディテーションにおいては特に重要です。何かの決めつけや、思い込みによらずに、オープンな態度で自分が誰なのか?どうなっているのか?を知ることから始める必要があります。

 オープンな態度で心を観るために、もう一つ注意が必要なことがあります。それは、私たちがすぐ良い人になろうとしてしまうことです。私たちの基本的な傾向として(癖と言えますが)、とにかく『良く』あろうとします。日常においては、『良い』人であろうとしますし、メディテーション中であれば、うまく瞑想をしよう、『良い』瞑想実践者であろうとします。

 しかし、こうした『良い』何かになろうとするのは、心のトレーニングにおいては非常な障害です。

 まず、自分がどうなっているのか、心がどうなっているのかの本質を見ずに、自分を『良い』ものにしようとか、自分を変えようとすると、とても心が重く苦しいものになっていきます。自分の理想と異なる自分を責め立てて、心が極めて窮屈になるからです。こうした時、私たちの知性は非常に鈍く、洞察力も低下しています。そしてその結果、ますます自分がわからなくなり、その自分をまた責め立てるというループに嵌ります。

 このよな心の罠に嵌らないためには、自分の「最初の思考」に気づくことがとても大切です。「最初の思考」を捉えることで、自分自身の思っていることや感じていることをダイレクトに、そしてシンプルに観ていくのです。
「最初の思考」は、自分が良い・悪いという二項対立で物事を決める前の段階の、純粋で加工されていない『最高の思考』です。

 私たちの中にある気づき、または意識が、『心』と呼ばれるものです。パッとなにかを思ったり、五感を刺激を通して何かに気がついたりしている感覚は、メディテーションや、日常のちょっとしたタイミングで感じることがあると思います。

 メディテーションを通して、さらに心を詳しく観てみると、心は常になにかしらの対象を探して、その対象を参照することで、何かを経験したり認識してることがわかります。そういう意味で心とは、『何かの参照点を経験できるもの』といえます。そして、この反応は、単に機械的におこなっているだけです。なにかを評価したり、判断する前の状態ともいえます。

 私たちの中で常に起こっている、そうしたシンプルで機械的な反応が、私たちのもっとも基本的な『知性』と呼べるものです。「最初の思考」は、自分の最も純粋な心の機能であり、そして基本的な知性でもあるのです。

 しかし、そうした知性を持っているにもかかわらず、私たちは自ら余計な手を加えてしまいます。「最初の思考」をせっかく捉えても、すぐに自分の心を変え、第二の思考、第三の思考を作り上げていきます。自分が実際に見たもの、感じたものを信頼せず、すぐに別のものにしてしまうのです。

 なぜ、そんな余計なことをしてしまうのかというと、私ちは常日頃、自分自身に信頼が置けず、自分のことを良く思っていないからです。なんとなく自分は不十分で、足りていない、問題のある存在のような気がしているからです。

 だからこそ、この自分への不信感や、不足感を知ることからメディテーションの実践を始める必要があるのです。自分への信頼感がなく、常に不足感があるのが、私たちの普段の状態であることを知ることがメディテーションの最初の一歩なのです。

 メディテーションの実践においては、この不安感や不足感から心が行う『安心を探す心の動き』を知ることは、とても重要なポイントです。安心したい、または安心を探すということは、自分が思っているような存在ではないと感じているからです。自分に何か問題があって、それに気が付きながら、それを認めたくないのです。知性的な私たちはそのことを直感的に知っています。

 マインドフルネスをはじめ、メディテーションが続かない人は少なくありませんが、メディテーションが続かない一つの大きな要因は、自分が問題だと思い込んでいる何かを見たくないからです。うっすらと自分が気づいている何かを見たくないのです。仕事が忙しい、子育てが大変、人生の転機だから、自分は大丈夫だから、、色々と理由をつけてそこから目を背けたいのです。

 メディテーションを行うことは、自己の存在に対して、自分が決めつけている、または思い込もうとしている、架空の『わたし』は存在していないことを認め、ただ正直に、素直に、本来の自分を観ることです。

 多くの人が、自分を高めたり、気分を良くしたり、心地よくなったりするためにメディテーションをします。これは自分の本質がわからず、漠然と感じる不安感から目を背けて、紛らわすためです。

 「こころの探求」や、「自己変革」など、すくなくとも私たちは、なにかしらの「人生の目的」を持っている気になりたいのです。しかし、なにかを探したり、変革を行うことに夢中になるということは、自分の不安や、混乱、パニックを表してるにすぎません。なにかを変えたり、なにかを探求していると、自分が存在している気になり、安心したつもりになるのです。自分が信じている『私』という個性を維持するためには、そうした安心が必要不可欠なのです。

 しかしこれこそが、本来の自分の存在そのものにアクセスできなくなる根本要因です。こうした心の逃避行に乗らないためには、「心とは何か?」「心はどのように機能するのか?」をよく調べなければなりません。

 心をよく観て、調べてみると、自分にはいろいろな不具合があると思い込み、それを必死で補強し続けている自分がいることに気が付きます。さらにその補強が完了したら、自分は完全で合理的な人間なると信じている「私』もいるかもしれません。こうした補強作業にはまりだすと、終わりのない心のゲームになってしまいます。すぐに次の不具合を見つけ、さらにそれを埋めるという繰り返しがひたすら続きます。

 私たちの存在、私たちの心は、必要なものが全て揃っていて、何かが不足しているわけではありません。しかし私たちは常に何か問題があるような不安に常に苛まれています。その最大の理由は、自分が何を考えて、何を感じているかがはっきりと『わからない』からです。

 この終わりのない心のゲームにはまらないためには、「最初の思考」をしっかりとらえ、自分の心を素直に、直接的に、そしてオープンに見ていくしかありません。常に目をこらして、なにが起きているのかを素直にみていくことで、正しく自分と向きあうことができます。心を観るとはこうしたことなのです。余計な加工や、判断などは一切いりません。

 最近、マインドフルネスは、メディテーションの中でもカジュアルで、ファッショナブルなものと認識されがちですが、しっかりとマインドフルネスを鍛え、「最初の思考」を捉えるシャープさを身につけることができば、自分の今ある姿、今ある人生から目を背ける理由は一つもないことがわかるようになります。豊かで安定して、そして余裕のある心と毎日過ごせるようになるとてもパワフルなメディテーションでもあるのです。

瞑想を学び始める

Vintage Dharma Beginner 

瞑想理論入門 詳細