自然さ
Apr 12, 2022今回はメディテーションの練習の一つの大切な要素、「自然」ということについて書いてみようと思います。
早速ですが…
皆さんの日常は自然ですか?
それとも取り繕った、人工的な何かがありますか?
メディテーションの実践という視点からみれば、自然とは、メディテーションや日常の生活の中で「素直」で、「何かに怯えていない」様と言えます。怯えていないので、肉体的にも心理的にも緊張から解放されている状態です。また、以前このブログでも紹介した『最初の思考』がしっかり捉えられ、物事を素直に新鮮に捉えている状態とも言えるかもしれません。これが自然な様です。心が焦っていない、すなわち攻撃性を持たず、余裕や、幸福感、感謝の気持ちなどの表現とも言えるかもしれません。
心が自由で自然であるためには、ある種の規律が必要です。自然と規律は相反するように思われるかもしれませんが、この自然と規律はコインの裏表のような関係で、どちらかが欠けるとその片方も成立しないものです。自然でいられるためには、私たちの心が囚われていない「今、ここに在る」ことを保つためのある種の縛りが必要だからです。
今に在るためには、日頃のメディテーションの訓練だけではなく、日常の中での経験を大切にすることにも関係しています。朝の散歩で朝日の美しさを感じたり、ランチのおかずの美味しさを感じたり、家族と過ごす時間に感謝できるのは、私たちが今現在に完全に存在することによって生まれます。もし私たちが、仕事の心配や、家庭のトラブル、過去の後悔や未来の心配をしていたら、そうしたことが全く感じられないでしょう。皆さんもこうしたことは日々の練習を通して経験されているかと思います。
マインドフルネス・メディテーションをしてみればわかる通り、「今に在ろう!」とメディテーションをしてみても、私たちはいつも何かに気を取られ、意識は職場やショッピングにお出かけしてしまいます。しかし、それにハッと気がついて、意識を呼吸に戻す作業をすることで、私たちは今に戻ってくることができます。その時心は落ち着いて、寛やかで、明晰です。姿勢と呼吸へ意識を向けておくという規律を守るだけで、心は自然な様を取り戻すわけです。この規律がなければ、私たちは日がな一日どこかへマインド・トリップしたままになってしまいます。そこには自然さはありません。自分が作りあげた何か人工的な世界に嵌ってしまっているわけです。
メディテーションの最中に限らず、日常においても、一杯のコーヒーをいつもより美味しく感じたり、家族に優しい気持ちを向けられている時に、自分に無理をしていない自然な感じがありますね。この時、私たちの心は、体とシンクロして、今にあるからです。今に在る規律を自分が維持してるからこそ、自然な振る舞いができているわけです。
自分の心や感情を放し飼いにして、ただ自分の想いに振り回さてしまっている無秩序な状態では、このような自然さにアクセスする事はできません。今に在るためには、まずしっかりとしたメディテーションの訓練が必要で、さらにそれに加え日常の中で散漫な心の気づいて、自分の目の前のリアリティに心を向き直す継続的な訓練が必要です。これらに馴染むまでには、残念ながら厳しい訓練が必要です。訓練なしにこのセンスを磨けません。
残念ながら、自然な暮らしは、規律とそれを維持する努力の上でしか成立しません。ただ不精をして何もしなければ、自然さを感じることなく、固くて鈍い心で、自分の作り上げた人工的で架空の世界から抜け出せなくなります。不自然な態度、不自然な心はここから生まれてしまいます。
しかし、この訓練を通して、規律が自分のものになると、自分が本来持つ自然な有様が現れてくるのです。そうなれば心は自由で開放的で何の束縛感もなく、軽やかなメディテーション、新鮮な日常を経験することになるでしょう。毎日のメディテーションの練習は、自然な自分を再確認している作業でもあるのです。