読むロジョン / スローガン16
Apr 12, 2022Slogan 16
Whatever you meet unexpectedly, join with meditation.
思いがけず出会うものは何であれ、瞑想につなげる
今回のスローガンで、ロジョンの7つのポイントの中の3つ目である日々のさまざまな出来事をいかに私たちの心のトレーニングに適用させていかくについては最後になります。
ここのところスローガン15の解説が続きましたので、ポイント3の内容をもう一度整理してみましょう。まず、第一のグループとして、スローガン10『あらゆる責を一つに追い込め』と11の『あらゆる人に感謝しなさい』というのがありました。これらは、相対的なボーディ・チッタ(思いやりの心)に関連するスローガンでした。また、第二グループとして、スローガン12『混乱を4つのカヤとして見ること/それは至高のシュニヤタ保護である』で「空」について学びましたが、このスローガンは、絶対的なボーディチッタについてのスローガンです。さらに、第三のグループとして、我々が心のトーレニングを進む上での特別な活動として、スローガン15『四つのプラクティスは最善の方法である』と今回のスローガン16『思いがず出会うものはなんでも瞑想につなげる。』があります。
今回のスローガンは、簡単にまとめれば、『何が起こっても、瞑想に結びつけましょう!』ということです。人生の突然の出来事に対処するとき、何事にもすぐに反応するのではなく、一拍置いて間を取るように気をつけます。すなわちシャマタ・ヴィパッサナ瞑想で培った感覚にしっかりと結びつけるようにしなさいという指示です。
私たちの毎日の生活には、辛いことも楽しいことも絶え間なく繰り返されています。そして良いことでも悪いことでも、突然やってきます。例えば、突然昇進のオファーが来たとしましょう。その時には単純に嬉しいという気持ちもあれば、責任の大きさに不安を感じることもあるかもしれません。
このスローガンの「思いがけず出会うものは何であれ」ということは、突然のサプライズが良い面、悪い面どちらに転ぶかわからないということです。私たちはそうした出来事が起きた時にはまず、楽しいことでも辛いことでもすぐに反応せず、単に瞑想にしなさいと言われているのです。
極論すれば、誰かに殴られても、誰かに仕事の手柄を横取りされても、それは構わないということです。これはちょっと自己犠牲的な意味合いのように誤解されがちですが、そうした意味ではなく、自分自身が瞑想で培っている、オープンさ、正確さをしっかりと使って、そうした出来事で起こる自分の心の神経症的な混乱を理解して、それを周りに伝播させないということです。
人生で突然の出来事を驚きや脅威、不安と捉えずに、また同時に励ましや喜びと決めつけず、心の間(ま)、余裕を持って、ありのままに受け止めて、そして自分の本来持っている優しさや思いやりの質を思い出すことです。全ての出来事を単に自分の規律に戻る契機、思いやりの心の一面と捉えていくのです。
そして、すぐに反応せず、一拍置いたらそこにすかさず「トンレン」を入れていきます。もし何か突然の幸運が起これば、そうした幸福はみんなに届けてようと想い、もしトラブルが発生したら、私がそのトラブルの責任を取ろう、そしてそれによって生まれる安心やポジティブことは、みんなに還元されるようにしようと考えるのです。重要なポイントは、受け取るものは最悪のものを受け取り、送り出すときは最高のものを送るということです。
また、良い知らせや悪い知らせどちらでも、そうした知らせを聞くと私たちは、「あぁ!」とため息まじりに息を吐くかもしれませんが、その時には究極のボーディチッタ(思いやりの心)に触れていると言われます。「あぁ」の中にそれが垣間見える時があります。ちょっとここで「あぁ」と息を吐いてみましょう。ちょっとしたリラックスが感じられると思います。こうしたリラックスした感覚は、ちょっと難しく表現すると開放性とか、手放ということができるものです。
こうした開放的な感覚に馴染んでいくと、徐々に自分の目の前の現実の世界が、いかに殺伐して緊迫しても、心地よさを感じてゆっくりではありますがリラックスをする感覚がわかり始めます。そしてその時、自分が何かに身構えたり、周りの人たちに攻撃的に接する必要がないことが感覚的にわかり始めていきます。思いやりすなわちコンパッションが芽生えているのです。
何が起こっても自分の瞑想と結びけることができれば、自分がリラックスして、思いやりや心のオープンさに触れたら、それを周りの人にむけ、現実的な思いやりに変えていくことも大切です。すなわち相対的なボーディチッタをもっと具体的に使う練習もしていく必要も出てきます。その時、トンレンの感覚はとても大切です。こうしたことを日々意識して暮らすことが、人生の中で起きることは何でも道へと持ち込むというプラクティスなのです。大変ではありますが、極めて意味深い実践です。